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『再逢』




 そんな新しい心境と感傷を想い、考えながら歩みを進めていたナヴァルの視界に見慣れた扉が映り込む。

「……ここが、目的の場所か?」

「部分的に肯定」

 ソレは事務的な調度でありながらも可能な限り意匠を凝らした通路区画と様式は同じだが、何故か重苦しい雰囲気を醸し出している両開きの扉だった。

 そこはスカイクラウ21の管理区画への入り口であり、ここを目指したという事はその先にある管理室が目的地なのだろう。

「…………」

 パンドラが常駐し、彼女がずっと守っていたスカイクラウ21(グリフティフォオン)を操る場所。

 その場所に向かうという肯定を受けたナヴァルは、いつも通りの剣呑な雰囲気を醸し出している管理区画の扉に開け、名実共に物騒な廊下を抜け、占有者に指名されてからいつの間にか触り慣れていた管理室への扉に手を掛ける。

「スカイクラウ21管理ユニット、パンドラが応対します。旗艦04、彼が当機の所有者候補でしょうか?」

 そうして開け放った扉の先、管理室からの光の中に彼女は居た。

 ――…………やはり違うんだな。

 硬質な輝きを返す緑色の髪と瞳孔の黒色を含まない赤一色の瞳、一度見掛けただけでも忘れられそうに無い程に整った顔形。

 一つ、決定的な違いが有るものの――管理室で二人を待っていたその少女は、ナヴァルと共にあったパンドラとよく似ていた。

 だが、ナヴァルを今日まで生かし続け、パンドラとも引き合わせてくれた彼の“感覚”は、スカイクラウ21を介して『このパンドラは“パンドラ”ではない』と無慈悲な現実を確りと告げていた。

「――だけど、なんでこんなに小さいんだ?」

 そんな目を背けて逃げ帰りたくなる様な厳しい現実を紛らわす様に、ナヴァルは“パンドラ”と目の前に居る新しい管理ユニットとの絶大的な差異を問い掛ける。

 髪を肩口辺りでバッサリと切り落としてしまっているのも目に付くが、ソレよりも気になるのは圧倒的な背の低さ――否、純粋に外見が幼く見える事。

 そして、“パンドラ”やフィーエルが厚着して体積を嵩増しする事こそが正義と言わんばかりの重厚なドレスを纏っているのに対し、この管理ユニットの服装はワンピース状の下着と見紛う軽装であり、正直に白状すると少々目のやり場に困る事も付け加えておく。

 とは言えその雰囲気はフィーエルと遜色ない程に落ち着いており、その評価が彼女達にとって意味の無い事と判っていても、幼い外見に反する静かな所作は妙な貫禄を醸し出していた。

「――現在、スカイクラウ21は旗艦04の意向により、ナノマシン群の保有制限を実施中」

 そして、ナヴァルがそんな風に新しいパンドラの容姿を纏められるだけの時間を開けてから、彼女はナヴァルの質問に答え始める。

 しかし、先程は落ち着いていると称したものの、返答を始めた新しいパンドラはその途中から僅かに不満そうな表情を滲ませ始める。

「尚――他者に対して『小さい』と称するのは失礼であると示したのは、ナヴァル・トーラであると指摘します」

 そして、不服そうな新しいパンドラが発した指摘は、ナヴァルが思いもしなかった言葉であった。

「――――」

 最初の数秒間、ナヴァルは初対面である筈の少女の言葉が何なのかを理解出来なかった。

 だが、その言葉の意味と在りし日の思い出とが繋がった瞬間、意識が遠のく程の衝撃に眩暈を感じる。

『――やはり、小さいですね』

 そんな“パンドラ”の発言から始まった、早とちりと勘違いによる奇妙な約束事。

 それは二ヶ月にも満たない昔にあった事だが、あの時の“パンドラ”が『今後は注意致します』と言った言葉はまさに――。

「――――ナヴァル・トーラ。当機の発言に、何か問題が?」

 新しいパンドラからの質問、そして“パンドラ”と同じ“何か困った事に直面した時”の無表情に、ナヴァルは漸く自分の頬を伝っているモノに気が付く。

「あ……いや、なんでも……ない」

 今、ナヴァルの目の前に居る新しいパンドラ――恐らく初期化された彼女は、彼の知る“パンドラ”ではないが“パンドラ”の時にあった事を覚えているらしい。

 ――あの悪魔も、酷な事を言ってくれる……。

 初期化されても本機が有益と判断した情報が反映されているのは、今ので否応なしに理解出来た。

 そして、ゼフィリアがこの事をどこまで知っていたのかは判らないが、“パンドラ”の断片を持つ新しいパンドラと協同するという事は今の様なやりとりの連続になる筈であり、ソレは想像するだけでも嫌になるような苦行であるという事もすぐに判った。

 ――……それでも、投げ出す訳にはいかない。ソレは、判っているが――。

 “パンドラ”は『希望は人を挫かせず、無為に歩き続けさせる為の厄災である』と、そんな風な意味を伴った問いをナヴァルに言った。

 ソレに答えられなかったあの時と違い、今のナヴァルはソレが“パンドラ”の杞憂であると言える答えを得ている。

 だが、この新しいパンドラと接し続ける内にその答えが擦り減っていくのは目に見えており、“パンドラ”に伝えねばならないその答えをいずれ失ってしまうかもしれない事をナヴァルは恐れた。

 そうして“パンドラ”に纏わる顛末に思い悩むナヴァルを前に、“優秀な”管理ユニットである新しいパンドラとフィーエルはそんな彼の事を放置してくれたのだが――。

「旗艦04へ。ナヴァル・トーラの能力は規定に到達していません。旗艦04より開放されているデータから、他に高位の能力者も居る事を認識。他に適任者が居るのでは、と、提案します」

「否定。当機所有者代理より、ナヴァル・トーラがスカイクラウ21の持ち主に相応しいと指名されており――当機も先程の記録からその意見を肯定」

 当事者の一人が沈黙している事を良い事に、彼女達は言葉での応酬を開始してしまう。

「旗艦04へ。当機は旗艦04が肯定に至った情報の提供、及び情報の円滑伝達の為の相互リンク確立を求めます」

「否定。当機所有者代理より、スカイクラウ21の全要望はナヴァル・トーラを通して行うようにと命令が発せられており、その申請には応じられません」

「――旗艦04へ。当機は現在、旗艦04より受けたナノマシン群の保有制限によって各種機能にブロック処理が施されており、完全な稼働が不可能となっています。当機はその解除を求めます」

「否定。当機所有者代理、及び当機はナヴァル・トーラの能力の向上を求めています。機能制限の解除を求めるのならば、ナヴァル・トーラの意識レベルを向上させ、自発的かつ論理的な意見を述べられるよう教育されたし」

 その静かな口調なれど激しいやり取りの中、フィーエルは最後通告の様な言葉を発して議論を打ち切る。

「――――」

 その強い決定に何も言い返せなくなった新しいパンドラは、無言のまま視線を当事者となったナヴァルの方へ移す。

「……………へ?」

 そして、その視線につられる様にフィーエルもまたナヴァルの方へと視線を向けた事で、彼女達の温情に甘えて思考を放棄していたナヴァルは現実に戻って来たと同時に面倒な状況へと追い込まれる。

「えーと……」

 詳しい状況が読めない中、詰問と観察という静かな二つの視線に晒されたナヴァルは意味の無い言葉と共に嫌な汗を浮かばせるしか術がなかった。

「――スカイクラウ21管理ユニット、パンドラが申請します。大変不本意ではありますが、ナヴァル・トーラを当機の所有者候補として認識します。以後、よろしくお願いします」

 追及と検分、困惑が織りなす嫌な無言の世界の中、新しいパンドラはそう言ってナヴァルに握手を求める。

「…………」

 他に選択肢が無いと諦めた様にも、困惑するナヴァルに対して仕方なくといった様にも取れるその手、もう随分昔に差し伸べられた手と同じ右手をナヴァルは静かに見つめる。

 その人形のように整った美しくも小さな手を見つめる事、数秒。

「――ああ。不甲斐無い能力者で申し訳ないが……よろしく頼む」

 ナヴァルはかつて掴んだ手よりもだいぶ小さなその右手を、今度は自分から握り込んだ。




 古傷の様な懐かしさと熱を失った様な寂しさとが混ざった様な顔合わせから十数分後。

「……なぁ、今日の本題は俺とあのパンドラの顔合わせじゃなかったのか?」

 仕事を終えた筈のナヴァルは未だにスカイクラウ21の艦内を歩かされており、彼は先導するように前を歩くフィーエルに向けてそんな問いを投げかける。

「部分的に肯定。ですが、ナヴァル・トーラにとってはこちらが本題であると推察」

「…………」

 だが、返ってきた答えは要領を得ないものであり、これまでの経験から目的地に着くまで詳細は教えて貰えないと判断したナヴァルは静かに状況を黙考する。

 『決起』に至るまでの時間を一緒に戦った“パンドラ”はもういない。

 言い直せば、ナヴァルが“パンドラ”の残した言葉にすがり、フィーエルという同じ姿の存在と“ザクルス”が持つ技術に見出した希望――再会の夢はつい先程潰えた。

 その上、そのまま終わってくれていれば“パンドラ”の記憶は思い出として片付けられたのだが、新しいパンドラはナヴァルと居た“パンドラ”がした事を覚えていた。

「…………」

 だが、例えどんなに似ていても新しいパンドラはナヴァルと共に在った“パンドラ”ではない。

 頭ではソレは判っている。

 とはいえ、管理ユニットは堅物そうに見えて所有者や占有者といった関係者に甘いような節があり、あのパンドラの事を“パンドラ”の様に扱えば彼女もナヴァルの望む様に振る舞ってくれる可能性はある。

 しかし、ソレはきっと不幸しか生まない行動であり、“パンドラ”の最期の願いにも反する事なのだろう。

 ――…………何をみみっちい事を考えているのだか。

 我ながら嫌になるその未練がましい考えを振り切る様に外へ目を向けると、フィーエルが先導している通路が通り慣れたソレである事に気が付いた。

「…………? 俺が使っていた船室に向かっているのか?」

「肯定」

「――まさか、改修工事の邪魔になるから私物を片付けろとか言うんじゃないだろうな?」

「部分的に肯定」

「マジかよ……」

 問い掛けと即答の応酬の末に得られた結果に、ナヴァルは歩きながら頭を片手で抱える。

 ここに来てナヴァルがした事と言えば、新しいパンドラと会ってほんの少し話をしただけだ。

 だが、そんな軽作業であってもナヴァルの精神は大きく擦り減っており、午前中に頭の痛い仕事を済ませている事も併せると今日はもう何も考えたくないと言うのが彼の本音であった。

 しかし、フィーエルはそんなナヴァルの内情を無視するようにほんの数週間前まで彼が使っていた船室の前にまで歩みを進め、そのまま静かに扉を開ける。

「…………」

 船室の中は通路や他の内部構造と同じ様に、あの決戦が嘘だったかのように何も変わっていなかった。

 元から部屋の広さに対して家財が少なかった事もあるが、三等官になった時に“パンドラ”から贈られたティーセットも、“パンドラ”が引っ張り出してきた香炉も――全て、あの時のままだった。

 だが、一ヵ所だけ違うものがあった。

 ――誰か……居るのか?

 船室の奥の一室、寝室として使っていた部屋には見覚えの無い機材が幾つも並べられており、その中心にある寝台においては“誰か”が眠っているような膨らみがあった。

「――――」

 その光景にナヴァルを生かし続けたもう一つの才能が疼く様な熱を発し始め、ソレが導き出した熱に浮かされるように、彼は“誰か”の眠る寝台へと進み始める。

 そして、その全てが見える場所に辿り着いたナヴァルは、その姿に呼吸を忘れる。

 目に映るのは、わずかに傾けられたベッドのリクライニング。

 その上で、まるで人間のように――いや、正確に言えば重病人のように眠る“パンドラ”と同じ姿のモノがナヴァルに動揺と期待と疑問と歓喜の全てを同時に与え、彼の思考を奪い去る。

 光の加減によって赤や茶にも見える黒い髪、生物としての熱を持った色素のある肌、ドレスのような特異な格好とは程遠い簡素な病人服。

 その女性の全ては“パンドラ”達とは程遠い“普通”で固められていたが、ナヴァルの直感は彼女が“パンドラ”であるという確信を伝えていた。

「…………“パンドラ”、だよな? さっきの小さい奴が居るのに、どうして……?」

 ナヴァルの口はそんな疑問を発するが、思考はその姿から考え至った正解を既に予測しており、その夢のような最善の結果に感情が追いついて来ない。

「ナヴァル・トーラ、その認識には誤りがあります」

 同じ存在が二人いる状況にナヴァルが困惑する中、彼の譫言(うわごと)を自分に対する問と認識したフィーエルが混乱を増長させるような訂正を発する。

「彼女はスカイクラウ21の管理ユニットではなく、(仮称)グリフティフォン管理ユニット、“パンドラ”が当機所有者代理と交渉した結果として発生した生体ユニットであり――ナヴァル・トーラの職務とは無関係の存在です」

「……なに?」

 いくつかの情報を集約した、フィーエルの管理ユニットらしい言葉。

 その重要過ぎる内容にナヴァルの思考はまだ追い付かないが、今までに得ていた数々の情報が彼の思考を加速させる。

 管理ユニットの中には生体ユニットとなって所有者の所有物や妾となった個体も居たという記録が有ると“パンドラ”は言った事がある――つまり、彼女達は健全な状態で運用されていれば、立ち位置はどうであれ生きている存在に戻る事も出来る。

 現状の当機では不可能と“パンドラ”は言った――それは、自身の権限を超えた行為をしていた彼女特有の不具合であり、健全な運用状態であれば彼女自身でも可能であると言う情報でもある。

 TYPHON社の所属のままでは不可能――それはつまり、TYPHON社にはパンドラを是とする事が出来る存在は居ないが、ソレが出来る存在の許しがあれば彼女は――。

『ナヴァル、トーラ……また、会えます。……どうか、そのままで――』

 ――……そして、嘘を付けない筈の“パンドラ”は――最後に、そう言った。

 そうして夢のような結末に至る確証を得たナヴァルの足は、夢現(ゆめうつつ)のまま前へと踏み出し、思考よりも素直な感情によって頬に一筋の滴が流れる。

「……なぁ、フィーエル――旗艦型って言うのは、構成艦型の間違いを許せるのか?」

「部分的に肯定。ただし、本機の規定に抵触する案件に関しては、当機よりも上位の存在の承諾が必要となります」

 管理者である彼女達よりも上位の存在。それは物としての側面を付与されてしまった彼女達を預かる存在。

 管理者である“パンドラ”よりも下位の位置付けにある占有者でしかなかったナヴァルには、グリフティフォンを――彼女等が本機と呼ぶシステムを止める事は出来なかった。

 だが、絶大な能力を持ち、所有者としても認められているゼフィリアが“パンドラ”の行動を認めれば――。

「…………本当に、“パンドラ”なのか?」

 あの時、何も返せないまま消えてしまった“パンドラ”に対する後悔。

 その感情から逃げたいだけの絶望から立ち直る為の希望を残してくれた事への感謝。

 願って止まなかった再会の希望が成った驚喜。

 一つだけでも身に余る感情の大波が同時に発生した結果、ナヴァルの思考は考える事に匙を投げる。

「その問いは、現時点では複数の意味を持ちます」

 ――……?

「ナヴァル・トーラが“パンドラ”と認識している存在は、その生体ユニットであると思考出来ますが、パンドラと言う呼称はスカイクラウ21の物であり、彼女に対して使用するのは不適格であると訂正を求めます」

 しかし、フィーエルはナヴァルのそんな些細な間違いも許さず、考える事を止めたナヴァルの内情等お構いなしに対応を求めてくる。

「え〜と……ちょと、待ってくれ――」

 管理ユニットの言葉が重要な意味を持つ時がある事を知っているが故に、ナヴァルは鈍った頭でフィーエルの言葉を理解しようとする。

 ――……このパンドラがパンドラだって事は確かなんだよな? ――いや、不適格ってどういう事だ?

 しかし、既に限界に達していた思考は処理落ちしたかの様にまともな答えを出してこない。

「……………ナヴァル、トーラ?」

 そして、ナヴァルがその混乱から抜け出せない中、“パンドラ”と思しき女性が目を覚ましてしまう。

「あ……すまない、起こしてしまったな」

 その所作に思わず詫びを口走ったナヴァルに対し、“パンドラ”と思しき女性は瞳孔と虹彩のある綺麗な灰色の視線を上げて彼の事を認識する。

「――――」

 そして、ナヴァルに応えるように唇を開こうとするが、ソレが言葉になる前に応えに困ったように口籠ってしまう。

 ――……む?

 その表情は“パンドラ”にとっての申し訳ないと言う顔であり、数週間の熟考期間によって彼女に参ってしまっている事を確かなモノとしていたナヴァルにとって、ソレはしおらしくてどうにかしてしまいそうになる仕草だった。

「ナヴァル・トーラ。その生体ユニットには現在個体名称が無く――そして、管理ユニットから外れる前に実行した越権行為によって、自己の存在を許容出来ない状態にあります」

 既知ではあるが初対面でもある“パンドラ”と思しき女性に手を伸ばし、抱きしめたい衝動をナヴァルが抑える中、フィーエルが彼女の状態を説明した事で茹った思考が僅かに覚める。

「――――」

 その管理ユニットらしい言葉による追加情報を得たナヴァルは、一呼吸分の思慮で“名無し”と称された“パンドラ”の状態を理解する。

「越権行為……“パンドラ”がTYPHON社をゼフィリアに売った事か?」

 そして、今までの経験から応用や融通を通し難い彼女達がこうなってしまった場合、その原因を解かないと話が進まない事を良く判っているナヴァルは“パンドラ”が自分を戒めているであろう問題の解答に掛かる。

「……っ!?」「――――」

 だが、最初に挙げたたった一言の答えだけで“パンドラ”とフィーエルが同時に硬直する。

「何をしても良い――“パンドラ”にソレを命じたのは俺だから、それは俺の責任だ。“パンドラ”の気にする事じゃない」

 ナヴァルがソレに思い至れたのはほんの数日前の事であり、そんなに驚かれると自分の方まで吃驚してしまいそうになるが、彼は努めて冷静にその責任の所在を明言する。

 ゼフィリアのゾイドに対する力は常軌を逸しているが、ゾイド以外の事となれば組織的な情報網が必要になる。

 ――だと言うのに、ゼフィリアが渡してきた人質リストにはゾイドが居ない潜伏場所も含まれていたからな……。

 であれば、ゼフィリア達がソレを知る為には密告者が要る。しかも、TYPHON社の全てを知っている位の存在が。

 なら、ソレは誰か? そして、パンドラはTYPHON鎮圧戦の最後の時に何と言ったか。

 それ等全ての要素を知るナヴァルにとって、その答えは気が付いてしまえばとても簡単な推察だった。

「――スカイクラウ04管理ユニット、フィーエルは情報を更新します。ナヴァル・トーラはスカイクラウ21を所持するに足る思考を持った人材であると記録します。――能力が足りないのが残念でなりません」

「昔“パンドラ”にも言われたし、さっきも聞いた気がするけど――ソレ、褒め言葉になってないからな?」

 失ったと思っていた願いがそこに居る事実により感情の重しが無くなったナヴァルは、自身の思考と感情がノッて来た事を感じながらフィーエルに突っ込みを返す。

 ――あとは……名前って言ってたか。

「名前が決まってなくても、いつもの『当機』とか――言い方は色々あるだろうに」

「スカイクラウ21内包される群体にとって、『当機』はパンドラが運用する一人称であり、生体ユニットである彼女は運用する事が出来ません」

「……『私』とかは?」

「対象を定義しない一人称は属する群体全体を指すと定義されており、スカイクラウに連なる存在は、同一人称を使用しません」

 ――あぁ、そうだったな……こいつ等はとんでもなく面倒な堅物だったな……。

 とは言え、気分は上がってきてはいるがいきなり一生を左右する『名前』を決めろというのは気が引けてしまうもので、ナヴァルは何とか先延ばしに出来ないかと交渉してみたがどうにもダメらしい。

「――つまり、どうやっても名前が必要だと?」

「部分的に否定。彼女との強固な関わりを無用とするならば、不要かと」

 最後はダメ元で質問を投げてみたが、流石にくどかったのかフィーエルの返答は最後通牒の様な凄味があった。

 ――……いや、若干怒っているか?

 彼女達は否定するだろうがパンドラはフィーエルの妹にあたり、そんな彼女を蔑ろにするような事を言えば確かに良い気はしないのだろうとナヴァルは自分の発言を反省する。

「……悪かった、お前さんの妹に対して失礼だったな」

「ナヴァル・トーラ。当機とパンドラとは――」

 そんなフィーエルの静かな怒りを逸らして時間を稼ぐべく、ナヴァルは彼女達専用の茶化しでその思考を封じ、しばらく続く筈の定型文じみた反論を右から左に流しながら与えられた命題について熟考する。

 ――名前、か……。

 『事前に言っておいてくれれば色々考えられたものを』と、ナヴァルはサプライズの様な形にしたゼフィリア達の事を一瞬恨んだが、事が事だけに状況が判っても結果は変わらないのだろうとすぐにその考えを改める。

 ――ストレートに行こう。……幸い、この言語は惑星Ziでは使われていない。

「エルフィス」

「――――地球圏における言語の一つ、希望と言う単語の変化形と推察」

 渾身の名前だと思ったが、定型的な反論を続けていたフィーエルは一拍の間を置いただけでその意味を調べてくる。

「……脳内に百貨辞典を持ってる奴が嫌われる訳だな」

「ナヴァル・トーラ、その認識には誤りがあります。――管理ユニットの総情報量は、百科事典等と比較になりません」

 ――持ってる情報量が多過ぎて、方向性を得られないと処理出来ない癖にな。

 意味を知られた事と時間が経った事でナヴァルの中にも照れが出始めるが、伝えねば何も始まらないと腹を決めた彼は“パンドラ”だった女性を正面に見据える。

「お前はエルフィスだ」

 ――……お前が、俺にとっての希望であるように。

「――情報を更新。エルフィスは、自分の名称をエルフィス・トーラと設定します」

 そうして“パンドラ”――否、エルフィスは自分の胸にゆっくりと手を当て、その名前を自分に馴染ませる様に、その言葉を呟く。

 初めて聴くエルフィスの声はフィーエル達よりも僅かに低く、生物の証とも言える渋みと暖かみのあるその声にナヴァルの頬に思わず笑みがこぼれる。

「…………いや、ちょっと待て。なんで俺の苗字も入ってるんだ?」

 だが、そんな心地よい感覚の只中から一転、看過できない単語に気が付いてしまったナヴァルは名乗りを上げたエルフィスの後ろの方に付いてきた名称の真意を問い掛ける。

「人間の名前には苗字が必要との情報を、エルフィスは有しています」

「だったら他にもあるだろうに……」

 経歴が真っ新である以上どんな苗字を名乗ろうとそれはエルフィスの自由であり、ナヴァルの意見は主に照れくささから来るものだった。

「――エルフィスは、スカイクラウ21よりも上位の存在にナヴァル・トーラの名字を使用する判断を仰ぎます」

 しかし、ナヴァルに取っては些細な事でもエルフィスに取っては妥協できない事柄だったらしく、彼女はその意思を通すべく面倒な名前を持ち出し始める。

「スカイクラウ04管理ユニット、フィーエルが応対します。――妥当と判断します」

「現所属の最上位権限者である、ゼフィリア・T・ジェナスにも確認を申請します」

「申請を受理――当機所有者代理より返答、『良いんじゃないの?』――以上」

「お、おまえら……」

 そうして些細な照れ隠しから始まったソレは流れる様な連携プレーによって外堀を埋められ、恐らく彼女達の中ではナヴァルの関係者という意味でエルフィスの名字が固定される。

「ナヴァル・トーラよりも上位の権限者より、承認を頂きました。今後、エルフィスは正式呼称をエルフィス・トーラと名乗ります」

 ――…………もう、どうにでもしてくれ。

 パンドラだった頃のエルフィスが上機嫌だった時に聞いた声音と、覆しようのない面子からの同意が重なった事でナヴァルは再び思考を投げる。

「――初期の問題は解決したと判断します。当機はこれより、スカイクラウ21管理ユニット、パンドラの調整及びエルフィス・トーラの移送準備の補佐の為、船室より退出します」

 ナヴァルが諦めによって脱力したのと同時に、フィーエルはドレスの端をついと掴みながら膝を曲げ優雅に一礼する。

「―――――」

 別人だと判ってはいるものの、エルフィスと同じ容姿の美女が成す女性らしい仕草にナヴァルは思わずドキリとする。

「エルフィス・トーラ。貴女はスカイクラウ04にて生体の増設・調整を完了するまで、ナヴァル・トーラと会う機会は、まずありません」

 そんなナヴァルの侘しいサガを他所に、フィーエルは視線をエルフィスに移して諭すような言葉を紡ぐ。

「調整の間に後悔しない様、ナヴァル・トーラとよく話しておく事を推奨します」

 ――……堅いのは変わらないが、エルフィスよりも経験が豊富なのは確かだな。

 フィーエルの言葉は感情を排そうとする管理ユニットらしい言動ではあったが、その言葉の奥底には『再会を祝しなさい』と言っているような温かみがあり、例え番号の上での関係であってもその在り方には“姉”と言って差し支えない深みがあった。

「――尚、ナヴァル・トーラへ忠告します」

「……なんだ?」

 フィーエルに向けて尊敬にも似た感情をナヴァルが思っていた矢先、当のフィーエルは物騒な単語を含んだ言葉でナヴァルに水を向ける。

「エルフィス・トーラの身体は、現在非常に脆弱な状態にあり――同時に、上位存在であるスカイクラウ21管理ユニット、パンドラも基幹部位の調整中である事から、エルフィス・トーラの存在を示す情報はここにしかありません」

「…………すまん、何を言いたいんだ?」

「現時点でエルフィス・トーラと性交渉等の高負荷の行動を実施した場合、該当個体には死亡の可能性があります」

「…………はぃ?」

「そして、本来バックアップを行うパンドラも完全でない事から、該当個体が失われた場合、その復元は困難を極めます」

「――バ、おま……っ!」

 衝撃的な単語から続き、フィーエルがその結果の説明に到った所で漸くナヴァルの意識が現実に戻って来るがその重大さに思考がまたオーバーブローする。

 ――こ、こいつらは本当に慎みってものが……!

「ゼフィリア様は、ナヴァル・トーラとエルフィス・トーラが共に在る状況を有用と思考しています。配慮に欠ける行動をせぬ様に」

 褒めた矢先になんて事を言いやがるとナヴァルが思うと同時に『配慮が無いのはお前だー!』と絶大なツッコミを入れたくなるが、そんな彼の思考が再び現実に戻って来た頃、フィーエルは既に船室を退出していた。

「――――」

 そうして、最後に巨大な爆弾だけを置いて行かれた事でナヴァルにとっては非常に重い沈黙が船室に落ちる。

「……か、身体の方は…………大丈夫なのか? 生体の増設・調整とか――なんか物騒な単語を聞いたが?」

 エルフィスは特に何も感じていないようだったが、元々彼女に参ってしまっているナヴァルは先程の言葉を妙に意識してしまっており、その気まずい沈黙に耐えられなくなったナヴァルはそんな質問を絞り出す。

「現在、エルフィスの身体は脳と心肺機能以外の殆どが機能不全の状態にあり、生命維持を外部機器に依存しています」

 ――…………いきなり重い話だったか。

 だが、その質問は新たな悩みの種という心配をナヴァルに植えつけ、彼に別の意味での重圧を掛ける代物となってその感情を押し潰してくる。

 しかし、『時折地雷を踏み抜きながらも付かず離れず進んでいた俺達の間は、いつもこんな感じだったな』と、ナヴァルは今のエルフィスの状態を感情抜きにした理論のみで考える事に努め、情報と理性を意識の中心に置く。

「これは、機能停止寸前のグリフティフォンの施設によってエルフィスの身体を生成した事による弊害ですが――後日、施設状況に問題の無い、スカイクラウ04にて健全な状態への更新が予定されています」

「……問題はないのか?」

 そして、今のナヴァルにとって最も重要な事は今ここに居るエルフィスの生存とその未来であり、自分ではどうしようも出来ない事だと判った上でその確認を取る。

「“ザクルス”はナヴァル・トーラとエルフィスに興味を持っている事から、エルフィスの生存に十全以上の対策が施されています」

「……そうか」

「現時点でナヴァル・トーラが過度な負担をエルフィスに強いなければ、まず確実に生存可能となっております。――どうか、ナヴァルも変わらぬ対応をお願い致します」

「……判った、善処しよう」

 生体に換装した事で本機の縛りから離れつつあるのか、エルフィスなりの冗談と気遣いにナヴァルは僅かに口元を緩めながら、すぐ傍にある彼女の身体――ナノマシン群体の時とは異なり、薄らと熱を持った頬に手を伸ばす。

「大丈夫か? 触っても」

「背面に繋がれている維持装置群を外さなければ、問題はありません」

 想像すると心配で眠れなくなりそうな返答の端々を深く考えないようにしつつ、ナヴァルは伸ばした手でソレに触れる。

「……暖かいな」

「ナヴァル・トーラ。現在、エルフィスの身体構造は完全ではなく――筋組織の総量不足から、体温は平均的な値よりも低いと訂正します」

「そうだな。……でも、暖かいんだ」

 命の熱、エルフィスが此処に居る証である熱。

 エルフィスの言葉通り頬の熱はナヴァルの手よりも冷たく、ソレは彼女の身体を心配してしまう程だったが――その熱は過去の遺物ではなく、今この世界で生きている者の証だった

「――ナヴァル・トーラ。……エルフィスは、以前の様にナヴァルを助ける事は出来ません」

 ナヴァルがその実感を確かめるように、自分の熱を分けるようにエルフィスの頬に触れ続けていると、彼女は唐突にそんな告白を口にする。

「……そうだろうな」

 影響は残っているようだが、もう管理ユニットでは無いエルフィスが出来る事は人間のソレと大差ない筈であり、戦う事以外の全てを彼女に任せると言った丸投げはもう出来ないだろう。

「それでも、ナヴァル・トーラに――エルフィスは必要なのでしょうか?」

「前の時から結構迷惑を掛けていたが……一緒に住んでみたら、エルフィスの方が嫌になるかもしれないぞ? ――お互い様だ」

 ――……これからは、おんぶにだっこで依存する訳にはいかないんだろうな。

 両親と言う存在の記憶が薄く、子供で居られる時間も殆どなかったナヴァルにとって、契約や利害関係以外での共同生活は完全に未知の世界だ。

 ――…………いや、一緒に生活するとなれば結局“利”を共にする事は避けられない訳だから、利害は有るか? ……いやいや、とは言えパン――じゃなくてエルフィスの“害”になるような事はしたくないから、やはり今までとは違うのか……?

 ナヴァルが唐突に発生した混乱に陥りながらも視線と思考を正面に戻すと、驚いたような表情で彼を見上げる灰色の瞳があり、自分だけがその心算だったのかと怖くなる。

「ナヴァル・トーラが求めた時以外も、エルフィスは一緒に居てもいいのですか?」

 しかし、今後の展望が読めていないのはエルフィスも同じ様で、妾や愛玩道具の様に扱われると考えていたらしい彼女もまた見当違いな問いを返してくる。

「そ、そうだな……身の振り方は決まってなさそうだが……傍にいてくれたら、俺はうれしいな」

 ――……………俺のバカヤロウ。

 幾つもの無茶を乗り越えて生き残ったエルフィスが、自分の事を未だに物扱いしている事にナヴァルは憤りを感じもした。

 だが、慣れないこの状況に対する妙な沈黙に圧され、その間違いを毅然と訂正出来ないナヴァルもまた同罪であり、彼は頭の中で自分自身を罵倒する。

 そして、その失敗を挽回するべくナヴァルは新たな話題と切っ掛けをエルフィスに提供するべく話し掛けようとするが、そんなネタや選択肢が全く浮かんでこない。

「…………」

 ――……どうする? 

 状況は変わらず、最適と思わる言葉も浮かんでこない。

 現状は圧倒的に不利、まず何より準備が足りない。

 そういう時は逃げるのが最善手だが、タダで逃げられるなら殿(しんがり)なんて言う嫌な役目は無い。

 ――逢って、生存を確認する事は出来た……。もっとずっと話をしたいのは確かだが、感情と意識がもう持たん……。

 想いはあるが言葉が出ない幸せの生き地獄の中、焦る様に所在無く動かした左腕の内端が懐に仕舞い込んである“あの包み”に触れる。

 ――…………そうか、これがあったな。

 “パンドラ(エルフィス)”と再会した時に渡そうと心に決め、返却されてからずっと傍に置いておいた彼女の持ち物。

 ただ返すだけの事だが、切っ掛けさえ有れば事を成しての逃げ切りを図れる。

「――とりあえず、また一緒に生きてみてくれるか」

 そうしてナヴァルは、ソレだけは簡単に言葉に出来る今の自分の願いと共に、エルフィスが最期まで手放さなかったアーシャ貝のオープンホールネックレスを彼女の首に掛ける。

 ――…………目的、達成。

 エルフィスの首に装飾鎖を回す時、今まで見た事も無い穏やかな表情をしていた気がするが、慣れない事で限界を迎えたナヴァルはそんなエルフィスに背を向け、彼女が身を預けるベッドに座り込む。

 ――たぶん大丈夫だろうが、ダメだと言われたら――いや、そんな事考えたくもないし、そもそももう帰って考えるのを止めたい。

 決める事は決めたし、言う事も言ったし、渡す物も渡した。

 重要な決定の連続で参っている事に加えてエルフィスも大変な状態にあり『エルフィスからの答えは彼女が万全になる時を待とう』とナヴァルは座り込んだベッドから再び立ち上がろうとするが――。

「――――」

 ナヴァルは動き出すよりも一瞬早く袖を摘ままれ、僅かに引っ張られる。

「ナヴァル・トーラ。エルフィス・トーラは、性交渉よりも前の情事を希望します」

「――――はい?」

 一撃離脱を図ったナヴァルであったが、生の欲求が有る身体を得たエルフィスは相手の勝手な逃走を許してくれず、愛らしい仕草でそんな阻止攻撃を加えてくる。

「体液接触による感染症の危険性が極僅かに存在しますが――エルフィス・トーラはナヴァル・トーラとの接触を、切に希望しています」

 灰色の視線は真っ直ぐにナヴァルの口元を見据えており、乙女の特権かその瞳は期待に潤み、頬は少ない熱を集めた様に僅かに赤らんでいた。

 ――あぁ……もう、どうにでもしてくれや……。

 元管理ユニットとしての理論で慣れない感情の熱を形にしようとするエルフィスの言葉は睦言としては拙いのかもしれないが、ナヴァルにとっては蜂蜜の様に甘く、彼自身も望んでいるその願いに心ここに在らずといった放心状態のまま応える。

 触れた感触に感動する余裕も、楽しみ安堵する経験も今のナヴァルにはなかった。

 だが、エルフィスらしい経緯と終えた後の満足げな表情は、ナヴァルがその人生を終えるまで彼の中に在り続ける想い出となった。





 それから、ナヴァルはエルフィスが求めるままに色々な話を交わした。

 その殆どはナヴァルの数少ない思い出話だったが、エルフィスはそれらを静かに、だが、とても興味深そうに聴いていた。

「――あ、そうだ」

「――?」

「パ――いや、エルフィスに言いたい事があったのを思い出した」

 その言葉はナヴァルとしては軽い気持ちで発したモノであったが、たったそれだけでエルフィスは何かを察したらしく、ナヴァルは握られっぱなしの袖口に力が加わるのを感じた。

 ――……戻ったら、もう少し安心させる方法を考えないとな。

 その些細な仕草を『可愛らしい』と感じてしまう自分の意地の悪さを嗜めつつ、ナヴァルはエルフィスの感じている緊張――責任の所在を明確にしても尚、パンドラだった頃の話をされる事に根底的な忌避感を感じているらしい彼女の内情を察する。

 話の振り方が唐突過ぎたのは認めるが、この話はエルフィスを縛っている不安を必ず削れるとナヴァルは信じており、袖越しに緊張を伝えるエルフィスの手を空いている方の掌で包みながらナヴァルは口を開く。

「物語にある『パンドラの箱』の話……本社のエレベーターの時に返せなかった答えを、返しておこうと思ってな」

「――――」

 そうして始められたナヴァルの言葉に、エルフィスは視線を鋭くしただけの沈黙で応える。

 これまでの経験からエルフィスの視線が『何故、今その話を?』と言っているかのような不満を発している事をナヴァルは理解している。

「災いにも使い道がある。希望っていうのがどちらの解釈でも……多分、そんなに違いはないだと思う」

 だが、これは彼女の名前(エルフィス)にも関わる話であり、言葉の端々を考え過ぎてしまう彼女が自分の名前で悩む事が無いように、どうしても聞いておいて欲しいナヴァルの答えだった。

 ――今のこの現実は、『決起』という夢が折れた先にある災いなのかもしれないが……。

「TYPHON社にとってのグリフティフォオンが希望と災厄のどちらであったとしても――希望(エルフィス)が居てくれた事で、俺達は行動する事が出来た。……俺はそれでいいと思う」

 パンドラ(エルフィス)が言った通り、“希望”は人に諦めを許さず、人を破滅へ導く災いなのかもしれないが――人はソレなしでは生きていけない。

「……TYPHON社に従事していた八万七千四十三人の夢の終わりと個人の納得とが釣り合うと、ナヴァル・トーラは思考するのですか?」

「俺は“お前達”を好き勝手に使っていい占有者だからな。――可能な限り、その責任を払っていくだけだ」

 TYPHON社を裏切ったパンドラ(エルフィス)の罪

 その膨大な人数の怨嗟や怨念を薄めるのはパンドラの占有者であるナヴァルの務めであり、それを成す責任が自分にあると彼は考えている。

「――ナヴァル・トーラが無計画な夢を語る人だったとは、エルフィス・トーラは予測できませんでした」

「呆れたか?」

「いいえ。……今後のエルフィス・トーラはナヴァル・トーラの行動を完全に予測出来る存在となる事を目指します」

 この先、どんな未来が待っているかは絶大な演算能力を有するパンドラやフィーエルにだって判らない。

 しかし、抗えない未来や絶望の中でも希望を乗せた行先を選ぶ事は出来る。

「――――」

 とは言え、その選択の結果すらも希望に踊らされているのかもしれないが――。

「――なんでしょうか、ナヴァル・トーラ」

 それがこんな希望なら、付き合わされるのもそんなに悪い物じゃない。

「…………俺は、お前を愛しているよ」

 言葉にするのは初めてとなる、ナヴァルが見つけた願いの正体。

「――――」

 その告白を受けた灰色の瞳は驚いた様に見開かれ、否定を含まない素直な反応にナヴァルが微かに安堵するが――。

「ナヴァル・トーラは、モノを愛する人なのですか?」

「――――自分から情事とか言っておいてソレかよ……」

 そんな願いと希望に寄り添う前途は、どうやらそう簡単ではないらしい。






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